帰郷、Tホーム入社

 大学を出てから、とある資格試験に働きながら挑戦していました。これが非常に厳しくて、何度も挑戦したのですが、最後には精根尽き果てました。親のこともあったので、尻尾を巻いて戻ってきました。再就職先の宛も無く戻ってきて、結局、宅建の資格を生かしての住宅販売の仕事です。

 最初の受注は2週間後。夜の7時半にとある官舎のチャイムを押しました。出てきた奥様は私の上から下まで何度も値踏みして、「ちょっと待ってください。」と奥へ。その後、晩酌で顔を赤くしたご主人が出てきて「Tの家がいいのは判っている。でも、俺は2300万円しか家には出せない。2300万円のがあったら買うから持って来い!」と言いました。あったんだなぁこれが。買うからと言うので建ててドタキャンになったのが2360万円。支店長に値引きしてもらって、その日の8時半から商談。週末の現地案内。無事、成約。後で聞くと、娘さんの結納があって、なんとしても官舎から出て受けたかったそうです。その後は、なかなかぱっとせず、つらかったです。年が明けて、なんだか1月に5棟とか、結局その年は23棟の受注でした。一躍、新人賞、トップセールスマンです。

 転勤、転勤

年齢も年齢でしたので、3年目には支店長でした。札幌西支店。宮の沢にありました。

ただ行ったときには、営業はもぬけのカラ。私が売るだろうと、営業を他の支店に放出。一から出直し。新人ばかり。メリハリをつけてノー残業デーを実施したり、午後からテニスしたり、それでも業績は上がりました。これからと言うときに今度は白石支店に転勤。新人の間では西は天国、白石地獄。といわれていたそうです。白石支店は支店の全員が辞表を出して結果、支店長が更迭され、私にお鉢が回ってきたのです。まだ7ヶ月ですよ!

 白石支店は江別、北広島などの新興住宅地を抱えていたので、他支店からの移管工事で食っている支店でした。営業に力が無く、夜の10時過ぎからミーティングがあったり。昼は車で寝ていたり、とにかくダメ支店でした。メリハリが無い。

やり方は同じ。無駄な動きはしない。モデルハウスの来場客を大事にする。9時には支店を閉める。残業代を取る(光熱費がかかるから)。これで、翌年度持ち越しが17棟になったとき、専務からの呼び出しです。場所はススキノ。「今度、お前、大阪だから」。「大阪?そんな冗談!大阪に支店なんか無いじゃない!」「お前が、作るんだよ!」今度は5ヶ月でした。

 

たどり着いたら大阪支店

「誰が一緒に行くの?」「誰も決まっていない。これから。支店長だけが決まった。お前だ。」 実は、会社を辞めようかなと思っていたのです。待遇が悪すぎる。それでも、乗りかかった船ですし、0から支店を作るなら、新規に会社を作る練習にもなるか。と思ったのです。でも、本当に何も決まっていなかった。

「支店の場所は?」「まず、大阪の一番高いビルの展望台に行って、ぐるっと見回して賑わっているところでいいから」( これ、本当の話です。 大丈夫か! )

もう少しで“十三”(じゅうそうと読む。京都から淀川を下ってくる川舟の13番目の船着場があったから、と司馬遼太郎が言ってました。ガラの悪い繁華街の町です)に支店展開するところでした。

 面白い話がいろいろあるのですが、まあとにかく、入ったビルは住友生命新大阪北ビル。非常に敷居の高いビルです。それから、メンバーの募集です。いろいろ変わったやつを入れました。尼崎信金の課長、手広く婦人服の店舗を展開していた奴、夜、地域のFM局でDJをやってる奴。などなど。何をやっていたかというと、”スチールツーバイ”のフランチャイズ展開です。

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